2019年06月29日

ひまわり野菜と農業品評会

本日も台風一過の暑さの中、ボランティア、保護者の方々がひまわり農場で野菜づくりに励んでくださいました。ひまわり認定制度で耕運機操作の認定に合格した子供も耕運機を操作して加わりました。雑草や天候、害虫等に気を配り、汗を流して生産することの大変さを日々実感しております。おまけに無農薬栽培のひまわり野菜は、市販の野菜に比べて形も悪く虫食いもあります。苦労して生産しても、種代、苗代、肥料代等を差し引くと利益はほんの僅にしかなりません。それでも農業を続けるのは、生産の素晴らしさを日々実感できるからです。このかけがえのない喜びを多くの子供達にも味わってもらいたいと思います。
以前テレビで県内のある地方で行われた農業品評会のことを報道しておりました。各農家から出品された農産物は、形や成熟度などを基準に評価されるようです。子供達も交えて作るひまわり野菜は、不揃い、虫食いなど、きっと品評会以前の出来映えの野菜でしょう。
いったい、品評会の評価基準に生産過程や生産手法は入っているのでしょうか。
もし、外見的出来映えのみをもって評価するのであれば、それは単なる野菜コンテストに他なりません。生産過程、特に生産手法が品評会の条件に入ってなければその評価方法への疑問が湧いてきます。
ひまわり野菜は、形は不揃い、虫食いもありますが、ひまわり野菜の最大の売は、無農薬です。無農薬、(オーガニック)こだわる理由は、より安全な野菜の提供にあります。
形よりも大切なものにこだわり続けるひまわりの野菜作りは、そのまま教育にも通じます。外見だけの人間でなく心ある人間を育てるひまわりの教育は、その手法も農業書のハウツーではないのと同様、教育書のハウツーでもありません。既存の教育手法や常識を越えて、子供それぞれにあった教育を施すことを目標にしております。農薬をまき、画一的な作物を生産して、農業品評会に入選するような野菜を作らないのと同じように、見てくれに重きをおいた教育ではなく子供達の内面を重視した教育こそがひまわり教育です。このひまわりの教育は、ギフテット教育でありニューロダイバーシティに通じる教育なのです。
みんな違ってみんないい、不揃いの子供達を認める教育なのです。
今、横浜みどりの学校ひまわりでは、不揃いの個性が次々に開花しようとしております。
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2019年04月10日

今を生きる

本日も多数の子供達とボランティア、保護者の来校がありました。新学期を迎え、子供達はそれぞれの出発でした。学校に行く事を当たり前に育った親たちは、同じ事を我が子に求め、期待して校長に切実に訴えてきます。その気持、よくわかります。同時に学校に行かない(行かれない)子供達の気持ちももっとわかります。悩む皆様への解答は複数です。
それは、老いた校長の経験則からの解答であり、科学的根拠は、何もありません。経験と科学が合致する時、人の信頼度は確実性をましますが、残念ながら、科学的能力を私は持ち合わせません。
五十才の教え子達の今の生き方から、本校の子供達の支援のあり方と将来の推測をします。
A君、勉強そこそこ、友達思いのリーダだった。現在、建設関係の社長、クラス会の時、先生は年金生活だからと言って、酒代を出してくれます。B君、勉強より野球、気持ちのいいやつだった、現在、銀座の有名寿司屋の総料理長、テレビ出演多数。修学旅行に交通事故死したクラスメイトの写真を胸に参加したC君、電鉄系路線バスの運転手、偶然乗り合わせた同級生女子の報告は、C君と同級生であった事を誇りに思う、だってこんな丁寧でお客に優しい運転手は見たことがないでした。E君、人望あり、謙虚、学力ずば抜け、現在、大学病院の外科医。
F君、謙虚、学力ピカイチ、現在日本を代表する大学の教授。G君、学力普通、お人好し、現在、人気ラーメン屋店主。他に職人、宅急便運転手、飲み屋店員など多数。共に今を精一杯いや背一杯生きています。学力よし、優しさよし、気が利くよし、特徴なしよし、です。今、私の言えることは、我が子の個性や特性を認め、子供達自らの生きる力を信じるだと言うことだけです。
因みに教え子諸氏に私の小学校の通信簿を公開したところ、それまでの和やかな雰囲気が一転、皆さん、マジ顔になり、「これでも校長になれるんだ」でした。新米教師の時の教え子、校長の時の教え子が今もボランティアで来てくれております。担任大嫌いだったあの子も。
人生ケセラセラと思えるようになれば、あなたは一人前の保護者かも。
明日も悩み苦しみながら共に生きませんか。
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2019年02月14日

ぶれない教育の実践

 先日、例年行っている教え子の飯田君の墓参りに今年53歳になる教え子達と行ってきました。丘の上の寺に40年も眠る飯田君は、横浜港北二ュータウン建設の最中、道路拡張工事の現場で自転車に乗っていて交通事故に遭い10歳の短いこの世での命を終焉しました。私が30歳の時でした。職員室の石油ストーブが心地良く燃える建国記念の日の前日の夕方のことでした。
 駆けつけた病院で、お父さんは、既に息絶えた息子を前に「酸素をしてくれ」と、我を忘れて訴え続け、お母さんは「淳ちゃん起きて」と繰り返すばかりでした。いたたまれず廊下に出た私の目に入ったのは、階段横のドアの陰でそっと涙をふく若い警察官でした。
飯田君の死を知らされた教室は、パニックになり子供達の余りの動揺ぶりに新米教師の私は、恐ろしささえ覚えました。
 2年後の日光修学旅行での昼食のテーブルには飯田君の写真が置かれてありました。親友の有井君が胸ポケットに秘めていた写真を取り出し、一緒にカツカレーを食べていたのです。
 以来、40年も続く教え子達との墓参りです。銀座の有名寿司店の総料理長になった二川君持参の芋料理を墓前で食べるのが恒例です。修学旅行に写真持参の有井君は、今は路線バスの運転士です。乗り合わせた教え子の女性が「先生、私、有井君と同級生で誇りに思います。」と訴えて来ました。彼女の話では、有井君が運転するバスに乗り合わせた時、乗り込んできた子連れの親子に彼が、超親切だったこと、その時、小さな子供がお母さんに、ママこの運転手さん優しいねと言っていたとのことでした。彼女は、心の中で、「ぼうやこの優しい運転手さんは私の同級生だよ」と伝思わず叫んでしまったとのことでした。 
 辛く、悲しく、そして困難な経験を克服した時に人は真の優しさを実践できるのでしょう。
 昨日、水泳の池江選手が白血病を告白したとの報道がありました。この報道を耳にした時、真っ先に頭に浮かんだのが転勤後に受け持ったA君のことです。
 5年生の箱根夏季学校の準備が佳境に入った時A君が再生不良性貧血だと言うことが知らされました。彼の夏季学校欠席の報に一緒に準備を進めて来た子供達も私もショックを受けました。子供達と何とか一緒に行ける方法を模作する中で分かったことは、A君にとっての最大の難関は駒ヶ岳から神山までのハイキングでした。保護者との調整をする中、連日にわたる子供達との相談の結果、担架で担いで彼を運ぶことになりました。狭く急な山道、自分だけでも大変な登山を小学5年生の子供達が友達を担架で運ぶことは高いリスクを伴いますが、熱血の私は子供達の計画に同意しました。勿論、同行の校長には内緒でした。やがて廃棄のモップにガムテープを張った簡易ミニ担架が完成、いよいよ決行です。担ぎ手はクラスの力持ちB君他6人の志願者です。この時から、我がクラスには実施要項に書かれた、半ば教師押し付けの目標よりも、クラス最大の目標であるA君を担いで箱根の山をハイキングをするという目標が、子供達にとっての最大の目標となりました。かくして、当日は雨上がりの滑る山道、対向者とのすれ違い時の困難、そして校長や学年主任に見つからないようにするなど多くの困難に出合ったもののクラス全員の力の結集で無事目標を達成することができました。あの時の子供達は現在40代、彼らは今、正に社会の中核となり活躍中です。中心になり担架を担いだB君は大学病院の医師として肺癌手術に奮闘中とか。きっと患者に優しい医者になっている事でしょう。
 別の学校では修学旅行中、知的障がいC君の世話を子供達が自主的にしました。今ほど障がいに対しての意識は高くはなかったし、人権意識も高くない時代に彼らは権利や義務などというもの以前にクラスの一員として、仲間同士支えあっていたのです。正にインクルーシブの実践を40年前にしていたのです。最近になり新情報が、知的障がいの彼がおねしょをしたが、先生にバレると彼が可哀想なので皆で相談して濡れた布団を押し入れに隠して来たとの告白を受けました。提案者と中心的実行者のE君は鉄筋会社の社長になっています。外国人従業員にも優しく対応しているとの事。
 以上、破天荒な教師の教育実践とその指導を受けた子供の行動です。
・どんな子供でも受け入れる 
・既存の教育手法に固守しない柔軟な教育。
・誰にも優しい教育、そして何よりも、ぶれない教育の実践が横浜みどりの学校ひまわりの教育理念です。
 人はこれを人間教育と呼ぶかも知れません。
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2018年09月22日

国境警備隊

20代後半でやっと横浜市の小学校の教員になった私の配属先は、港北区の山奥、川崎市との境のそこは、今でこそ港北ニュータウンで賑わっていますが、40数年前は正に横浜のチベット(チベットの皆様失礼)と呼ばれていました。校庭を野うさぎが横切り、道路には、狩猟の流れ弾注意の看板、郵便も速達配達区域外の指定が、そんな学校に勤務する私たちは自らを国境警備隊とよんでおりました。中区や西区は横浜の行政、文化の中心地、教育においても先進的教育の発信地、研究に意欲的な教員、将来偉くなり横浜の教育を担おうことを自負する教員、教育委員会により選ばれた多くの教員は皆中区、西区に集まっていたように思います。そんな中での我が国境警備隊の任務は、おらが学校と慕ってくれる地域住民の思いを受けて、彼らの子ども達への限りない愛情に溢れた教育の実践でした。それは、中心地の教育手法から遅れた時代遅れの教育手法だったかもしれません。ただ最新の教育手法を学ぶ研究会に行かなくても、愛情を持って子どもに接する心は学べました。おらが学校と学校を慕ってくれる地域住民とその子ども達への教育について最善を尽くす心を芽生えさせるこては国境地帯でも十分に持つことができました。
国境警備任務一校11年、2校で22年を経過した時、子ども達と農作業や花壇栽培に日曜日も忘れ没頭する私の姿をみた校長が、教育熱心な先生と、嬉しい錯誤をしてくれたおかげでめでたく副校長という管理職に、その後も慈悲深い校長達のおかげで国境警備隊出身の校長になりました。警備隊出身の校長の特長は、教育理論には疎いが汗を流し子ども達に接する事は朝飯前、という事でした。
国境警備隊出身校長は、校長になってからも国境警備で培った教育手法を忘れずに、校長室で指揮をとることなく、最前線の教室の子ども達のもとに通いました。それは、教育理論を語るよりも教育現場の最前線に赴き子ども達のたに汗を流す国境警備隊仕込みの教育実践でした。このような言動を校長自らは、職人校長とよんでおります。
かくて、再任用校長を経て退職後8年目の今、若き日の横浜市教育職国境警備隊の教えは、今も健在で、ボランティアスクール横浜みどりの学校ひまわりの学校経営に色濃く反映れております。まずは、子どもの声に耳を傾ける、そしてなによりも体を張って子ども、保護者の悩み解決に全力を尽くすことです。若き日の流れ弾注意の看板の立つあの地域で学んだ国境警備隊の精神はこの校長にとって、生涯不滅です。今、教育について論じられる中、かっての国境警備隊の教育手法をも論じてほしいものです。
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2018年01月23日

新聞少年

それは、東京オリンピックが開催される4年前、私が今は無き、渋谷区立原宿中学校1年生の時でした。決して裕福ではないが、家計を助けるほど貧しくはなかった床屋の倅は先輩のやっている新聞配達に憧れました。自立、自分で金を稼ぐ事に大人への何かを感じたのでしょう。今の子ども達も同様の思いを持つでしょうが、あの時代は、新聞少年にそれを転嫁しました。毎日新聞店舗は表参道、今のコーポオリンピアのあたりにありました。宮島新聞店、偶然にも同級生の父親の経営する店舗でした。住み込の大学生、川島さんの下請けになり、配達区域は渋谷の宮下公園周辺から青山の子供の城(当時は都電の青山車庫と地元の人達が都電病院と呼ぶ、都立青山病院)周辺でした。配達部数は、約300、中でも某ガラス会社の4階建の社宅は横に繋がる廊下は無く、いちいち下まで降りて次の入口に行くので大変でした。時たま1階のポストに4階の分までいれると、苦情の電話が殺到、そんな中で渋谷女子高校の事務員さんは、辛くても頑張るのよ、と励ましてくれました。集団就職で来たと思われるパン屋のお姉さんの優しさ、屑鉄屋のお兄さんの、マラソン大会にでれば1位になれるぞ、の声が忘れられません。心配でわざわざ配達ぶりをそっと見に来た母ちゃんのやさしさも。昨日の大雪の中、バイクのうなるエンジン音で目を覚ました私の脳裏に約60年前の体験がよみがえりました。つぶれそうなフリースクールの校長をしている今、子ども達におそれる事のない体験とそれによる人との出合いが人生にどんなに必要か伝えたいです。学校では学べない事こそ自分の人生に有益な事はありません。保護者にも声を大にして叫びます。発達障がい、シングル家庭、一人っ子それがなんだ、ハンディなんて甘えてないで、困難に打ち勝つ、強い子どもを育てなさい。それにはまずあなたが世間に、学校に胸を張ることです。
posted by 校長 at 19:14| Comment(0) | 日記