2019年02月14日

ぶれない教育の実践

 先日、例年行っている教え子の飯田君の墓参りに今年53歳になる教え子達と行ってきました。丘の上の寺に40年も眠る飯田君は、横浜港北二ュータウン建設の最中、道路拡張工事の現場で自転車に乗っていて交通事故に遭い10歳の短いこの世での命を終焉しました。私が30歳の時でした。職員室の石油ストーブが心地良く燃える建国記念の日の前日の夕方のことでした。
 駆けつけた病院で、お父さんは、既に息絶えた息子を前に「酸素をしてくれ」と、我を忘れて訴え続け、お母さんは「淳ちゃん起きて」と繰り返すばかりでした。いたたまれず廊下に出た私の目に入ったのは、階段横のドアの陰でそっと涙をふく若い警察官でした。
飯田君の死を知らされた教室は、パニックになり子供達の余りの動揺ぶりに新米教師の私は、恐ろしささえ覚えました。
 2年後の日光修学旅行での昼食のテーブルには飯田君の写真が置かれてありました。親友の有井君が胸ポケットに秘めていた写真を取り出し、一緒にカツカレーを食べていたのです。
 以来、40年も続く教え子達との墓参りです。銀座の有名寿司店の総料理長になった二川君持参の芋料理を墓前で食べるのが恒例です。修学旅行に写真持参の有井君は、今は路線バスの運転士です。乗り合わせた教え子の女性が「先生、私、有井君と同級生で誇りに思います。」と訴えて来ました。彼女の話では、有井君が運転するバスに乗り合わせた時、乗り込んできた子連れの親子に彼が、超親切だったこと、その時、小さな子供がお母さんに、ママこの運転手さん優しいねと言っていたとのことでした。彼女は、心の中で、「ぼうやこの優しい運転手さんは私の同級生だよ」と伝思わず叫んでしまったとのことでした。 
 辛く、悲しく、そして困難な経験を克服した時に人は真の優しさを実践できるのでしょう。
 昨日、水泳の池江選手が白血病を告白したとの報道がありました。この報道を耳にした時、真っ先に頭に浮かんだのが転勤後に受け持ったA君のことです。
 5年生の箱根夏季学校の準備が佳境に入った時A君が再生不良性貧血だと言うことが知らされました。彼の夏季学校欠席の報に一緒に準備を進めて来た子供達も私もショックを受けました。子供達と何とか一緒に行ける方法を模作する中で分かったことは、A君にとっての最大の難関は駒ヶ岳から神山までのハイキングでした。保護者との調整をする中、連日にわたる子供達との相談の結果、担架で担いで彼を運ぶことになりました。狭く急な山道、自分だけでも大変な登山を小学5年生の子供達が友達を担架で運ぶことは高いリスクを伴いますが、熱血の私は子供達の計画に同意しました。勿論、同行の校長には内緒でした。やがて廃棄のモップにガムテープを張った簡易ミニ担架が完成、いよいよ決行です。担ぎ手はクラスの力持ちB君他6人の志願者です。この時から、我がクラスには実施要項に書かれた、半ば教師押し付けの目標よりも、クラス最大の目標であるA君を担いで箱根の山をハイキングをするという目標が、子供達にとっての最大の目標となりました。かくして、当日は雨上がりの滑る山道、対向者とのすれ違い時の困難、そして校長や学年主任に見つからないようにするなど多くの困難に出合ったもののクラス全員の力の結集で無事目標を達成することができました。あの時の子供達は現在40代、彼らは今、正に社会の中核となり活躍中です。中心になり担架を担いだB君は大学病院の医師として肺癌手術に奮闘中とか。きっと患者に優しい医者になっている事でしょう。
 別の学校では修学旅行中、知的障がいC君の世話を子供達が自主的にしました。今ほど障がいに対しての意識は高くはなかったし、人権意識も高くない時代に彼らは権利や義務などというもの以前にクラスの一員として、仲間同士支えあっていたのです。正にインクルーシブの実践を40年前にしていたのです。最近になり新情報が、知的障がいの彼がおねしょをしたが、先生にバレると彼が可哀想なので皆で相談して濡れた布団を押し入れに隠して来たとの告白を受けました。提案者と中心的実行者のE君は鉄筋会社の社長になっています。外国人従業員にも優しく対応しているとの事。
 以上、破天荒な教師の教育実践とその指導を受けた子供の行動です。
・どんな子供でも受け入れる 
・既存の教育手法に固守しない柔軟な教育。
・誰にも優しい教育、そして何よりも、ぶれない教育の実践が横浜みどりの学校ひまわりの教育理念です。
 人はこれを人間教育と呼ぶかも知れません。
posted by 校長 at 13:06| Comment(0) | 日記